三宝教団 管長



 2010年という新しい年が始まった。皆さんそれぞれの思いで新年を迎えられたことと思う。経済、金融、産業界を取り巻く環境は引き続き極めて厳しい。禅の指導と共に企業経営に携わる私には、特に経営の面で大きなチャレンジの年になりそうだ。政情も世界的に不安定な状況が続く。日本においては54年振りに自民党から政権を奪い取った民主党が政治とカネの問題で躓き、安定的な政権としてまだ浮上していない。政情の不安が経済に影を落とし、難しい経済情勢が、さらに難しさを増しそうだ。今年は日本のみならず世界的な規模で政治経済の激動が続くと思われる。
 しかし、その激動の中で只一つ微動だにしないものがある。新年に当りそのことを確認しておきたいと思う。激動のど真ん中で、微動だにしないもの、いかなる年月を経ようが、全く変化しないもの、それは何か。いうまでもなくそれは「自己の本質」である。「自己の本質」はありとあらゆるの変化の中で微動だにしない。このことを最初に発見したのは釈尊である。この発見は釈尊35歳、私の試算では今から2,438年前のことだ。
 釈尊の発見を端的に表現すると「人は死なない」という発見である、といえる。
 いかなる歳月の変遷にも、いかなる環境の変化にも我々の本質は微動だにしない。当然ながら「死なない」のである。
 「人は死なない」という発見は人類史上最大、最高の発見であると私は思う。これほど価値のある発見がほかにあろうか。最大最高の世界遺産といっても言い足りない。しかし残念ながらこの大発見を地球上に住む大多数の人々が知らない。新年が訪れるたびに、また一つ歳をとった、また一歩死に近づいた、と人は考える。これは全くの誤りなのだ。歳をとった者が何処にいるのか、何処に死に一歩近づいたものがいるのか。釈尊はこの問いを徹底的に追求した。そして「自己」というものは影も形も色も臭いも重さも、何もないことに気がついたのだ。「自己」というものは人間が頭のなかで勝手に作り上げたイメージに過ぎなかった、という事に気が付いたのだ。「自己」とか「人」というものは概念に過ぎない、ということは「人の死」も頭の体操で作り上げた概念に過ぎないということだ。「死ぬ」というが「死ぬ」者が存在しないのだ。はっきり申し上げると「死」というものはそもそも存在しないのだ。
 さらに申し上げるとじつは「死」について述べたことはそのまますべて「生」にあてはまるのだ。「死」は存在しないが「生」は存在するというわけにはいかない。上の文章で「死」という字を「生」に置き換えてみていただきたい。「釈尊の発見を端的に表現すると「人は生まれない」という発見である」ということになる。
 「生死」は概念であって、「生死」には実体がない。にわかには信じがたいと思われる方が多いかもしれないが、実は「生死」というものは存在しないのだ。生死の本質を述べると、嬉しいが生であれば悲しいが死である。苦しいが生であれば楽しいが死である。歩くが生であれば走るが死である。雨が降るが生であれば天気になるが死である。山が生であれば河が死である、ということになる。
 世界政治経済の激動は勿論のこと、全宇宙の活動の全ては実は「生死」そのものであり微動だにしない我々の本質が展開する姿なのだ。
 
 「人は死なない」。釈尊のこの尊い発見を一人でも多くの人に伝えることが三宝教団の使命である。坐禅を通してのみこの発見は共有出来る。
 この使命の遂行のためにこの一年共に力を尽くそうではないか。


三宝教団機関誌 暁鐘340号(2010 1・2月号) 巻頭言より掲載





横尾龍彦画

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