ホーム > 禅へのさそい > なぜ、今、私は坐禅をするか-その3

 安楽の法門
 宇津江忠夫           

 体と心に大変良く、元気が出るので坐禅をしています。
 姿勢を正し呼吸を整え、何も思わない坐禅のひと時を過ごすと、体は爽快になり気分は闊達になります。ちょうどヘシャガッていた紙風船に暖かい空気が一杯はいったような感じです。
坐禅は安楽の法門と言われます。 「心安らかにこの今を楽しむ」
 私はこれが坐禅の一番の功徳だと思います。一〔柱〕坐ったあと平穏な心にパワーが入り、やる気を覚えます。たとえ難しい問題を抱えている時でもです。
 お釈迦さまは生老病死の四苦を説かれました。生きる事それ自体が苦である事、さらに老いる事、病を患う事、死ぬ事、これらが人間の根本的な苦だとされました。
 坐禅は心を安らかにします。又これらの苦を根底から解決してくれます。

生死事大 ―坐禅のきっかけー
 サラリーマンだった頃、友人が仕事上の問題で自殺をしました。明るい性格で家族思いだった彼は、幼少から親しい仲間でした。
 当時私は「死」の問題など考える事も無い日を送っていました。しかし身近な友の死は、そんな考えを吹き飛ばすものでした。死に対する恐怖と不安、無常感が重くのしかかってきました。また、死は誰にも必ずやってくる不条理な不可解な厄介事なのだと気づきました。
 そんな折、近所の禅寺で坐禅会をしているということを知り参加しました。
 禅堂の入口にかかった木板に、
    生死事大、無常迅速
    光陰可惜、時人不待 
と書いてありました。
(生きる事、死ぬ事は大事な問題だぞ、死はアッという間にやって来る、寸暇を惜しめ、時は人を待たぬ) 
この句に目が釘付けになりました。
 そして初めて坐った坐禅。足の痛さに脂汗を流したけれども、終って山門を出るとき不思議に心が洗い流されたようにサッパリしているのを覚えました。 
 暫くして、ご縁があって三雲禅堂に通うようになりました。総参の話が終わって老師相見のとき先師、耕雲老師に私は生死の問題を申上げました。
 「それは見性したら解決できる。見性したら死にいく人にも無畏施((恐れることは無いと安心を施す事)もできるのだよ。」 老大師はご自分の体験から確かな言葉で順々と説いて下さいました。
 あれから三十年経ちました。見性は初期のころ二回許して頂きましたが、その仔細はもうすっかり忘れてしまいました。記憶の彼方で、そんなことがあったかなという感じです。
 毎月の坐禅会で公案に沿った独参により、ご指導を耕雲老師、慈雲老師、祥雲老師、凌雲老師から頂いてきました。
 薄紙を剥ぐように生死の問題は気にならなくなりました。人は生き通しの世界に居るのだと分かり、肩の荷がおりました。
 ただ今、生死の問題を根本から解決したのかと問われたならば、私の答えは「否」です。そのためには大悟、大見性の体験がなければなりません。空の世界に深く入って、その世界と一体となることが必要と言われます。
 はたしてこのような体験は私にもやってくるのでしょうか。どこまでも未熟な私には、日暮れて道遠しの感がします。
しかしすべてはお任せです。あれこれ考えないで今日も姿勢を正し、呼吸を整えて坐ります、

 行く雲  


 

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その3: 安楽の法門 宇津江忠夫  
その2: 難聴克服のために坐る(目で聴ける迄) 佐藤 榮
その12: 坐禅は最高のぜいたく 野村邦男  



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